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2014年8月

パスカル・キニャール著『アマリアの別荘』感想

本作品は、イザベル・ユペール主演で映画化されたという。なるほど、イメージぴったりだ。


アン・イダンは現代音楽家。15年連れ添ったパートナーの浮気現場を目撃したそのとき、小学生時代の幼なじみのジョルジュに再会する。

ジョルジュの助けを借りながら、アンはパートナーと別れ、家財道具を一切売り払い、生まれ変わるための旅に出る。
ナポリを経てイスキア島にたどり着き、そこで海が一望できる崖の上の別荘、兄が自分の妹アマリアのために建てたという謂われのある別荘に一目惚れして、所有者に交渉して借りることに成功する。

部屋で倒れていたのをきっかけに、アンはナポリの病院に入院し、いつしか主治医のラドニツキと懇ろになる。彼は離婚した妻との間に2歳半の娘レナがおり、3か月ごとに面倒を見ることになっていた。

海で溺れたアンはヴァカンス中のカップルに救助される。女性の方・ジュリアはアンに夢中になり、レナのベビーシッターとしてナポリにとどまる。
しかしジュリアの不注意でレナが死に、ジュリアは行方をくらます。
アンはラドニツキと別れ、ジョルジュの元に戻る。

その矢先、母が死んだという知らせを受け取る。母の葬儀に、アンが幼いころ失踪し、長年音信不通だった父親が姿を現す。

ユダヤ人である父は、カトリック教徒の母と結婚することで書類が整い、戦争中もフランスに留まることができたが、結婚生活そのものやお互いに監視し合うような狭い社会に耐えられなくなったのだ。二人は和解をするが、二度ともう会わないという約束をし、最後に一緒に作曲する。

病で余命いくばくもないジョルジュに懇願され、ついにアンは彼と結婚するが――。

父親が失踪したという過去が影響しているのか、アンは他人に対して臆病であると同時に薄情だ。
一緒にいてくれと縋る男たちを平気で置き去りにするのは、置き去りにされることに耐えられないからだろう。

父親の前で子供のように泣きじゃくるくせに、パートナーに黙って、二人で住んでいる家を売りに出し、彼の持ち物までも捨て去る。残酷と思う人もいるかもしれないが、いったん心が離れたら、そこまでするのに何のためらいもないのが女だ。女性の心理を上手いこと書いているな~、と思いましたね。

DVD『遥かなる勝利へ』感想

『太陽に灼かれて』『戦火のナージャ』に続く、スターリン大粛清から独ソ戦にかけてのソ連の激動の歴史を大河ドラマのごとく描き上げた3部作の完結編。

ロシア革命の英雄でありながら政治犯の汚名を着せられたコトフは、懲罰部隊の一兵卒としてドイツ軍の堅固な要塞と対峙していた。
そんなコトフの前に、スターリンの命を受けて彼の捜索を続けていた、秘密警察のドミートリ大佐が現われる。

ドミートリはコトフの妻マルーシャの元恋人で、かつてコトフの策略によって彼女との仲を引き裂かれたと信じ、彼に「イギリスのスパイ」という濡れ衣を着せて陥れた男。

一方、最愛の父コトフとの再会を願ってやまないナージャは、今なお従軍看護婦として戦地を駆けずり回っていた。しかし過酷な戦場を目の当たりにして、ショックで口がきけなくなっていた。
負傷兵をトラックで移送中、ドイツ軍の空爆に合う。乗り合わせた妊婦が産気づいたが無事男の子を出産する。ふと気が付くと、奇跡のように自分たちのトラックだけが生き残っていた。

前線から連れ出されたコトフは、すでにこの世を去ったはずの妻マルーシャが生きているという事実を告げられる。ドミートリ大佐に伴われ、家族とのかけがえのない思い出の地である避暑地の別荘を訪れたコトフ。しかしマルーシャは、生きていくために別の男と結婚していた。

コトフを復権し、中将にまで昇格させたスターリンの目的は、1万5千人の市民兵を率いて、ドイツ軍の要塞を奪取させることだった。そんな作戦は到底成功するはずもなく、1万5千人の死体の山を築いて、ナチスの残虐さを世界に喧伝し、危機感を持たせるため。しかも全責任をコトフに負わせようとするものだった。

作戦当日、棍棒を持たされただけの市民兵の先頭に立って、コトフは自分も棍棒をもって悠々と突き進んでい行く。それを見た兵士たちも続々と後に続いた。
何事かとドイツ軍が戸惑い静観している最中、要塞内で火災が発生。火は爆薬に引火し、要塞はロシア軍の目の前で炎に包まれた。

同じく前線に駆り出されていたナージャは、前進する兵士たちの中に父親を発見、無我夢中で地雷の埋まった草地に飛び出すのだが・・・・。

冒頭、一匹の蚊が大写しとなり「あれ、(借りた)映画間違えた?」と思いましたが、その蚊の目を通して塹壕のロシア軍の様子を描きます。う~ん、斬新だ。

ドイツの要塞陥落シーンとか、ちょっと無理があると思いましたが、迫力のクライマックスでした。

コトフとナージャはやっと再会しましたが、あんな結末が待っているなんて・・・。娘の行動はあまりに無謀ですが、そうせずにはいられなかっただろうし、身を挺して娘を守った父親の愛には心打たれますね。
ナージャは『太陽に灼かれて』の愛くるしい少女、『戦火のナージャ』のがっちりした10代の少女から、美しい女性に成長していましたね。

オレグ・メンシコフ、54歳にしてあの若々しさ。水浴シーンでは、いい脱ぎっぷりで見事な肉体を披露しましたね。ファンサービスですか?

「革命の英雄」から地位も名誉も家族も何もかも奪われたのに、ユーモアを忘れないコトフ。この壮大なスケールの歴史の主人公としてふさわしい大物です。

公式ホームページ:http://www.haruka-v.com/index.html

DVD『愛、アムール』感想

『ピアニスト』『白いリボン』など、衝撃的な作品を発表してきたミヒャエル・ハネケ監督。
その彼が次に見据えたのは、ひと組の老夫婦の愛の形だった――。

消防団が玄関を破り、目貼りのしてあった部屋を開けると、盛装をして花を撒き散らしたベッドに横たわる老女の死体があった。

ジョルジュとアンヌは、ともに音楽家の老夫妻で、パリの高級アパルトマンに暮らす。その日、ふたりはアンヌの愛弟子のピアニスト、アレクサンドルの演奏会へ赴き、満ちたりた一夜を過ごしたのだった。

翌日、いつものように朝食を摂っている最中、アンヌに小さな異変が起こる。突然、人形のように動きを止めた彼女の症状は、病による発作であることが判明。手術を受けるも失敗に終わり、アンヌの体に麻痺が残った。医者嫌いの彼女の「二度と病院に戻さないで」との願いを聞き入れ、車椅子生活となった妻と、夫は自宅でともに暮らすことを決意する。

当初、時間は穏やかに過ぎていった。誇りを失わず、これまで通りの暮らし方を毅然と貫くアンヌ。それを支えるジョルジュ。離れて暮らす一人娘のエヴァも、階下に住む管理人夫妻も、そんな彼らを見守る。思い通りにならない体に苦悩し、ときに「もう終わりにしたい」と漏らすアンヌを懸命に励ますジョルジュ。

しかしアンヌの病状は確実に悪化していった。母の変化に動揺を深めるエヴァ。それでも、ジョルジュは献身的に世話を続けた。しかし、看護師に加えて雇ったヘルパーとうまくいかず、娘からの干渉も避けるようなり、次第に孤立していく。

夫は「痛い、痛い」と泣き叫ぶ妻を落ち着かせようと、懐かしい日々の思い出を語り出すが、発作的に布団をかぶせ――。

体がいうことをきかない。失禁してしまったことにショックを受ける。人間誰しもが避けて通ることのできない「老い」と「死」。
しかし、映し出されるのは決してそれだけではない。常に相手を気遣い、次第に衰えていく相手のありのままを受け入れる。苦楽を共にしてきた夫婦の歴史や絆の深さが映し出される。
「老老介護」の果ての介護疲れによる殺人――。なんて一言でまとめちゃいけませんね。

でも実際、一人で献身的に介護するのは美談に聞こえるけど、どんどん他人の手を借りなくちゃ、共倒れになることは目に見えています。
核家族化が進み、「子どもに迷惑をかけたくない」という人も増えている現在、「老老介護」によるトラブルも増えていくと思うな~。

夫妻の愛弟子のアレクサンドルは、役者さんが扮しているのではなくて、現役のピアニストが実名で出演していて、劇中音楽も彼が担当したそうです。
2011年に来日してコンサートしてますね。

ハネケ監督だからためらいもなくドイツ語作品と思いこんでいたけど、パリが舞台なのでフランス語作品でした。

公式ホームページ:http://ai-movie.jp/

DVD『永遠と一日』感想

テオ・アンゲロプーロス監督の代表作!何度見てもいいですね~。音楽も最高に良い。
題名の『永遠と一日』という言葉は、脚本の構想中にふと思いついたもの、と監督は述べていますが、実はシェークスピア『お気に召すまま』の一節やポール・マッカートニーの歌にもこの言葉があるそうです。

詩人アレクサンドロスは、重病を患い、入院を明日に控えていた。
彼は家政婦のウラニアと最期の別れを告げ、娘のカテリーナ夫婦の家に向かう。
その途中、路上で車の窓ふきをして小銭を稼いでいる少年たちが警察に追われているところに出くわし、アレクサンドロスは自分の車の窓を拭いていた少年を匿う。

アレクサンドロスはカテリーナに、3年前にこの世を去った妻アンナの手紙を渡す。その一つを娘が読み上げるのを聞きながら、彼は娘が生まれて親戚が集った夏の日を思い出していた。そして仕事を口実に自分に目を向けてくれない夫を、妻がどれほど愛し、不安に思っていたかを思い知る。
アレクサンドロスは愛犬をカテリーナに預けようとするが、娘婿の動物嫌いを理由に断られ、さらには思い出のつまった海辺の家を売ったと聞かされショックを受ける。

アレクサンドロスは娘宅からの帰り、さっき助けた少年が誘拐されるのを偶然目撃する。
少年を乗せたトラックについていくと、ひと気のない郊外の廃墟に入っていった。どうやら金持ち夫婦に「養子」として売られるところだったらしい。アレクサンドロスは手持ちの現金で、少年を人買いから買い戻す。

少年は、住んでいた村を襲撃され、命からがらアルバニアから越境してきたギリシア系アルバニア人だった。詩人は少年を家族の許に返そうとアルバニアとの国境まで送り届けるが、不気味な雰囲気の検問所を前にして二人は逃げ帰る。

街に戻ってきたアレクサンドロスは、“言葉を買った”詩人ソロモスについて少年に語る。19世紀の詩人ソロモスは、アレクサンドロスが長年研究してきた詩人でもあった。

(ここで舞台は19世紀へ。詩人ソロモス登場。)
イタリア育ちのギリシア人ソロモスは、オスマントルコからの独立を求めてギリシャが蜂起したのをきっかけに故郷に戻る。ギリシア語ができなかったソロモスは、島の人から言葉を聞き、知らない言葉には金を払った。それが噂となりいろんな人が彼に言葉を売ろうとした。
「そして彼は<自由賛歌>を書いた。その他の詩もたくさん。」

アレクサンドロスは愛犬をウラニアに託すことにするが、訪れた彼女の家では息子の婚礼の真っ最中であった。

港では少年が、詩人ソロモスに倣い「言葉を買う遊び」をする。「クセニティス」――どこにいてもよそ者。少年の祖母が言っていた言葉だという。アレクサンドロスはあの夏の日に親戚一同で島に旅した思い出に耽るが、偶然、病院の担当医師と出会い、現実に連れ戻される。

海辺では溺死体が発見される。少年と命賭けの旅をともにしたセリムの遺体であった。アレクサンドロスは遺体安置所で一芝居を打ち、少年はセリムの遺品を手に入れる。セリムの弔いが廃屋で行われる。セリムの弔いのため亡命少年達が数多く廃屋に集まる。
アレクサンドロスは、亡くなった実母の病院を訪問したことを思い出す。母の枕元で「なぜ私は一生、よそ者なのか。」「なぜお互いの愛し方がわからないのか」と泣き崩れる。

少年は他の仲間たちとフェリーで旅立つという。アレクサンドロスはたまらず「一緒にいてくれ」と懇願し、少年を誘いバスに乗る。コミュニストの青年、喧嘩をするカップル、楽器を持った3人組、そして詩人ソロモスが乗っては降りていった。アレクサンドロスは下車するソロモスに「教えてくれ!明日の、時の長さは?」と尋ねる。

真夜中、夜遅く、フェリーのトラックに積載されるコンテナで少年は仲間と旅立つ。少年は去り際に「アルガディニ・・・とても遅く」と呟く。

翌朝、アレクサンドロスは海辺の家に赴く。
詩人の脳裏に、あの夏の日が再現される。
詩人が妻に「明日の時の長さは?」と聞くと、アンナは「永遠と一日」と答える。
「病院には行かない。言葉で君をここに連れ戻す。」
詩人は海に向かって、少年から教わった言葉を叫ぶ・・・。

コルフーラ ・・・私の花 ・・・
  クセニティス ・・・よそ者 ・・・
    アルガディニ ・・・とても遅く ・・・

 

詩人ソロモスが書いた「自由賛歌」が、実は現在のギリシア国歌なのだそうです。
全部で158節あり全部歌うと2時間近くかかるので、公式の場では2番までしか歌わないことがほとんどらしいですが。

黄色いレインコートの男たち、この作品でも登場します。何かのメタファーかと思いきや、監督すら「あそこにあの男たちが出てくるのは必然なんだ。なぜかと聞かれても、詩を説明するようなもので・・・。それを考えるのは批評家の仕事だ」なんて答えています。

でも、わかるような気がする。あそこに突然出てきても全然違和感感じなかったし。アンゲロプーロス監督の作品は、どこか幻想的というか詩的というか。
バスのシーンも、『銀河鉄道の夜』を思い出させますね。

「今」が曇天の薄暗い冬の日、画面も灰色であるのに対し、思い出の「夏の日」はどこまでも明るく輝いている。現在と過去の対比が見事に描かれていると思います。

この作品については書き足りないのですが、収拾がつかなくなるから今回はこれまで。

DVD『ハンナ・アーレント』感想

誰からも敬愛される高名な哲学者から一転、世界中から激しいバッシングを浴びた女性がいる。彼女の名はハンナ・アーレント、第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人だ。

1960年代初頭、何百万ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが、逃亡先のアルゼンチンで逮捕された。アーレントは、その歴史的裁判の傍聴を希望し、イスラエルに飛ぶ。

「それが命令だったから」「私は命令に従っただけ」ひたすらそう語るアイヒマンに、想像とは違うアイヒマンに違和感を覚える。

収容所の生存者が次々と証言するが、アイヒマンが関係した事案以外の内容も含まれていた。そしてあることに気づく。ユダヤ人移送には、同胞であるユダヤ人指導者たちの関与もあったことを―――。

アーレントは「アイヒマンは反ユダヤではない」という結論を出した。
殺人機関の命令を執行したがユダヤ人に憎悪はない。移送先に貨車が発車したら任務完了。
彼は役人。
想像を絶する虐殺行為と彼の平凡さを、同列には語れない。

裁判傍聴を終えアメリカに帰ったアーレントだったが、なかなか書けなかった。ようやくのことでレポートを書き上げ、「ザ・ニューヨーカー」誌に発表するが、「アイヒマン擁護だ、ユダヤ人批判だ」と世界中から誹謗中傷を受ける。長年の友人にさえ理解されず、彼らは「傲慢だ」と離れていった。

こうしたヒステリックな反応に対して、ついにアーレントは講義の中で弁明を試みる。

「理解を試みるのと許しは別。」と映画の中で述べているように、アーレントが裁判を傍聴したのは、断罪や許すためではなく、アイヒマンを<理解>するため。
彼女自身、収容所から脱出した経験を持つ当事者であるにもかかわらず、そうした一切の葛藤や私情を排除した分析を行っている。

アーレントはアイヒマンをあくまで「どこにでもいる人物」とみなした。「悪の凡庸さ」、国家(あるいは組織)という枠組みの中で「思考停止」することの恐ろしさをレポートの中で伝えたかったのであって、ユダヤ人指導者のこともその事例として出したのだろう。

だから「アイヒマン擁護」という批難は彼女にとって的外れなことで、「そこ、論点と違うのに!」と戸惑う。

だが。

普通の人間はそこまで達観した視点を持ちえないもので。自分が、家族が、同胞たちが被害を受けたのならなおさら。
アイヒマンを良心もモラルもないモンスターとして断罪する方が、市民感情に合っているものなのだ。そして自分たちが理解できない「モンスター」として彼女を排除しようとする。

「上に逆らったって状況は変わらない。
抵抗したところで何も変わらない。仕方がなかった。
そういう時代だった。みなそんな世界観で教育されていた。」

アイヒマンは裁判の中でこう語ったが、ニュルンベルク裁判でも被告たちは同様のことを語っていた。

でもこういうのは、何もナチス・ドイツに限ったことではない。
この現代でも、日本でも、小さな会社の中でも、上からの命令に逆らえずに、理不尽と思えるようなことでも、その場の空気を読んで実行する人々がいる。「となりのアイヒマン」とでも言いたいくらい。

そして、異を唱える人、疑問を呈する人を全力で排除しようとするのだ。そこまでしなければ自分たちの共同体が壊れるとでもいうように。

『ハンナ・アーレント』は、自ら考えることの大切さを我々に訴えている。

公式ホームページ:http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

DVD『こうのとり、たちずさんで』感想

近所のレンタルDVDショップに、テオ・アンゲロプーロス監督作品が大量入荷したので、さっそく見てみました。

テレビレポーターのアレクサンドロスは、ヴェトナム難民たちがギリシャ船に救われながら政府に入国を拒否されたために冬の海に身を投げたという事件が忘れられず、クルーとともに3国と接する北ギリシャの国境地帯に取材にやって来た。

案内してくれた大佐は国境線の前に、飛び立つ寸前のこうのとりのように片足で立ちながら、呟く。「一歩踏み出せば異国か、死か、それが国境だ」。

街では国境を越えて保護を求めてきた各国の難民たちが定住許可を待って滞留していた。アレクサンドロスは、数年前に失踪したある政治家に似た人物を街の市場で発見する。彼はこの〈男〉とかつての妻を対面させ、その様子をカメラに収めようとする。

〈男〉の周辺を取材し続けるアレクサンドロスは、ある夜、ホテルのバーで身じろぎもせず自分を見つめている〈少女〉に気づき、一夜を共にする。後日、彼女を再び見かけ後を追うと、黄色いレインコートを着て電線工事の仕事から帰ってきた〈少女〉の父が取材中の〈男〉だった。

〈男〉の妻が町に到着し、その翌朝〈男〉と出会う。彼女の横顔に涙がにじむが、夫人はカメラに顔を向け「彼じゃない」と言って歩み去る。アレクサンドロスが夫人から預かった、政治家が残していた電話テープの声を〈男〉に聞かせると、〈男〉はテープの続きを静かに語り出す。

街には、アルバニアから村の半分の人々が難民として越境して来た集団があり、彼らは河を隔てて年に一度お互いの無事を確かめ合う「河の集会」を行っていた。今年は結婚式も重なっており、花嫁はあの〈少女〉であった。翌日の、河越しに行われる結婚式をアレクサンドロスは取材クルーとともに見守るが、式も終わりになろうという頃、遠くから聞こえる銃声で人々は散り散りになる。

翌日、アレクサンドロスは〈男〉が行方不明になったという知らせをきく。「僕は見たよ。国境を越えて見えなくなった」と言う少年の言葉を聞きながら、アレクサンドロスはふと顔をあげると、黄色いレインコートを着て電柱を上っていく電線工事の人々の姿があった。

本来「立ちずさむ」という日本語はありませんが、河辺で<男>が立つ姿は、「佇む」とも違うし、「立ち尽くす」とも違うし・・・。「すさむ」は「遊む」。
国境を前に片足立ちをし、一歩踏み出すか否かを逡巡する様子を一本足で立つこうのとりの姿になぞらえた・・・英題がSuspended Step Of The Stork 「こうのとりの漂う一歩」なので、この辺のニュアンスはよく出てるなと思いますね。

DVDには監督のインタビューも収録されています。
「この先いくつ国境を越えれば家に帰りつくのだろう」という印象的な台詞がありますが、これについて監督は、

「国境を越えた後、果たして自分自身や世界との均衡が取り戻せるか、「家(ホーム)」と呼ばれるところに戻ればそうなれるのか?
私が思うに、人は誰でも家に帰る途上だろう。いくつ国境を越えれば、探し求めた自分と世界との均衡を取り戻せるのか。それが映画の問いだ。」

また、黄色いレインコートを着た電線工事夫たちが、電線を繋いでいるラストシーン。監督はインタビューの中で、現実には伝達手段をつないでいるのだが、メタファーとしては、国境を越えること、世界中の国境を消滅させる可能性を提示していると言っています。

<男>は、大物政治家の地位、フランス人の美しい妻、世界的にも有名な文筆家という誰もが羨む境遇にありながら、世界との均衡を失ってしまい、失踪し、今でも自分の<ホーム>を探し求めている。
となれば、国境の河辺にいた男とアレクサンドロスの前に現れた電線工事夫たちは、「越境」「旅立ち」を表すものなのかもしれんな、と思いました。

主人公の詩的な独白から始まるプロローグ、いかにもアンゲロプーロス監督作品ぽ~い、と久々の監督の世界に浸りましたよ。
撮影中の事故で亡くなったのが本当に悔やまれる・・・・。

DVD『エリザベート~愛と哀しみの皇妃』感想

時は19世紀。当代随一の美貌を誇るバイエルン王国公女エリザベート(愛称:シシー)は、姉の見合い相手だったオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められ、わずか16歳でオーストリア皇后となる。自由を愛するシシーは、伝統を重んじる皇族の暮らしに反発。民族主義・ファシズムが台頭し始めるヨーロッパで、シシーは運命の波に翻弄されていく...。ハプスブルグ家、最後の皇妃シシーの半生を描いたTV映画。

本作は、イタリア=ドイツ=オーストリアの合作の下、エキストラ2000人、衣装700着、馬100頭が用意され、制作費総額11億円をかけて作られたそうです。日本語の吹き替えは、ミュージカル『エリザベート』でエリザベートならエリザベートを演じた演じた女優さんが担当しているとかで、ミュージカルファンも楽しめそう。

映画は、二人の出会いから、オーストリア=ハンガリー二重帝国の誕生まで、とわりと史実に沿った内容。
エリザベート皇妃は、「放浪の皇妃」というイメージが強いけれど、この映画では、夫であるオーストリア皇帝のために、帝国離脱を画策するハンガリーを翻意させ、オーストリア=ハンガリー二重帝国の誕生に尽力する妻として描かれています。
「トート」は出てこないけれど、エリザベートに想いを寄せるハンガリー側の貴族アンドラーシとの交流が、ちょっとしたアクセント、ってな感じ。

この映画の見所は、やはり本物のシェーンブルン宮殿を使ったロケ!建物内部はわからないけど、あの建物は絶対セットじゃないわ~。ドレスやインテリアも最高に豪華でロマンチック。

主人公シシーを演じるのは、クリスティアーナ・カポトンディ。『副王家の人々』で主人公の妹で、望まぬ結婚を強いられる女性を演じていましたね。
皇帝フランツ・ヨーゼフがデヴィッド・ロット、という優しげなハンサムで史実の、というか晩年のイメージとは違ってますね。皇帝という責務を優先するけれど、それでも自由奔放なエリザベートをひたすら愛する。そんなわけでこの映画、かなりロマンチックな感じです。
姑・ゾフィー皇太后になんとマルティナ・ゲデック。かなり貫禄ついちゃってて、言われなきゃわからなかったわ。

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