友人にチケットを取ってもらって一緒に鑑賞してきました。古川雄大さんキャストの回です。
古川雄大さんは、『エリザベート』では抑えた演技というか、優等生的な演技をする印象があったのですが、このモーツアルト役は、ピュアな少年ぽさを前面に出して軽やかな感じがしました。当たり前だけど、役によって全然印象が変わりますね。
来年クローズする帝国劇場
ポスター
キャスト告知
衝動買いしたクマのぬいぐるみ。別売りの赤いジャケットの衣裳もゲット。
導入部分で、かつての妻コンスタンツェに道案内させてモーツアルトの墓を探す場面があるのですが、こういうのが『エリザベート』と同じ系列の作品だと思って楽しくなりました。
〈あらすじ〉
小さい頃は「神童」「奇跡の子」と呼ばれ、父レオポルドや姉ナンネールとともにヨーロッパ各地を演奏旅行して過ごしていたヴォルフガング。
しかし「ハタチ過ぎたらただの人」、成長してからはぱっとせず、父親の雇い主でもあるザルツブルク大司教のために曲を書くだけの毎日。自分を縛りつける父親や大司教に反発して、ザルツブルクを飛び出す。
モーツァルトの傍らには、「奇跡の子」と呼ばれ貴族にしか許されない赤いジャケットを着ていたころの姿をした「アマデ」がいた。アマデは、ヴォルフガングが父や姉を置いて故郷を出たときも、音楽で成功したときも、女や酒に現を抜かすときにも、何も言わず彼を見ていた。
マンハイムで音楽家のウェーバー一家と知り合い、そこの長女アロイジアと恋をする。しかし父レオポルドに反対され、パリに移る。パリでも鳴かず飛ばずで、同行した母も亡くなり、失意の中ザルツブルクに戻る。
そのころ、劇作家でありプロデューサーのシカネーダーと知り合い、「いつかドイツ語のオペラを、大衆が喜ぶオペラをつくろう」と誓う。支援者のヴァルトシュテッテン男爵夫人がウィーン行きを勧めてくれ、才能を試すためにウィーンに移り住む。
ウィーンではウェーバー一家と再会し、ヴォルフガングはアロイジアの妹、コンスタンツェと結婚する。しかしヴォルフガングが成功するにつれ、夫婦の間に溝ができていく。父親とも分かり合えないまま、父は亡くなる。
シカネーダーとのオペラ『魔笛』が成功を収めたころ、謎の人物からレクイエムの依頼を受ける。しかしそのころのヴォルフガングは、父の死、借金、妻との不和で疲れ果て、作曲できる心境ではなかった。「僕が死ねばお前〈アマデ〉も死ぬ――」。ヴォルフガングは心臓に羽ペンを突き刺して・・・。
〈アマデ〉はモーツァルトの「才能の化身」とされているけれど、彼の幼心、良心、過去の栄光を表しているのかな、とも思いました。
いや、「セルフイメージ」というのが近いかもしれない。何をやっても褒められる「奇跡の子」。しかし子供がやるからすごいことも、大人がやっても珍しくもないわけで、誰も注目しなくなってくる。成長した彼が、赤いジャケットを買ってきて「また演奏旅行に行こう、そうすれば上手くいく」という姿は、無邪気を通り越して子供っぽい。彼の不幸は、「奇跡の子」というセルフイメージをアップデートできなかったことだろう。
この作品は、〈アマデ〉をめぐる物語と言ってもいい。
父レオポルドは、音楽の才能はあるが、傷つきやすく流されやすい息子は、父親の自分がいなければ生きていけないと思いこませ、また思い込んでいた。
姉ナンネールも、ヴォルフガングの才能に振り回された一人。彼女も音楽の才能に恵まれ、「奇跡の少女」と言われて一緒に演奏旅行をしていたのに、成人してからは音楽も辞めさせられて家でピアノを弾くだけの毎日。ヴォルフガングの子どもの頃を形どった人形に、目隠ししながら嘆いていたシーンはぞくっとしました。(子供のころのコンサートで、目隠しして弾くという余興をやっていた)
ザルツブルク大司教のコロレドも、彼の才能に執着していたように思えました。彼を縛り付ける、第2の父のごとき存在。「神はなぜモーツァルトに才能を与えたのか、自分にではなく」と考えていたように見えました。だからこそ、支配し、自分に服従させようとしたのかな。
ヴォルフガングは「ありのままの自分」を見てほしかったのに、周囲は、とりわけ父親は「アマデ」という幻しか見ていない。
第1幕の最後に流れる『影を逃れて』は、キャスト全員で歌い上げる圧巻のナンバーですが、才能や過去の栄光を捨てて生きていけるかという歌で、この作品のメインテーマと言えるでしょう。
『エリザベート』ほどスケールは大きくはないけれど、とても見ごたえのある作品でした。
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