映画・テレビ

映画「エリザベート1878」 感想

原題は『corsage(コサージュ』、コサージュ(胸元などを飾る小さな花束)、そして胴衣(コルセット)という意味です。
映画の中で何度も、コルセットで身体を締め上げるシーンが出てきます。これは、エリザベートを取り巻くすべてが彼女の精神をコルセットのように締め上げていたことの隠喩なのでしょう。

1877年のクリスマスイブ、40歳の誕生日を迎えたエリザベート皇后が容色の衰えにおびえ、宮廷のしきたりやその他諸々に窮屈さを感じている。
エリザベートが推したハンガリー政策で貴族と揉めたことから、夫の皇帝フランツ・ヨーゼフはもはや政治に口を出すことを許さない。
何かあればすぐ旅に出ていなくなる母親を、皇太子ルドルフやヴァレリー皇女ですら疎ましく思っている。
そして死に憑りつかれた彼女はある計画を思いつく・・・。

ラストはあっと驚くものでしたが、「え、この終わりかた、アリなの?」っていう終わり方でした。
どこかの映画レビューで「わかる~!」という人と「?」という人に分かれると思うと書かれていましたが、
途中までは私も、中年女の閉塞感や焦燥感、わかる~って感じでしたが、
ラストには度肝を抜かれて「え?」になりました。

エリザベート皇后といえば、「悲劇の美女」っていうイメージがありますが、本作のヒロインは、タバコを吸い中指を立てる、ロックな中年女です。「悲劇の儚げな美女」というイメージを思っている人にはちょっとこれは、ショッキングなヒロイン像かもしれませんね。

 

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公式サイト:
https://transformer.co.jp/m/corsage/

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映画『ネヴァーランド』感想

誰もが知っている『ピーター・パン』の誕生秘話。今度ミュージカル『ファインディング ネヴァーランド』を見に行くので、予習として元になった映画を見てみました。

 


 

 

1903年のロンドン。新作劇が不評で気落ちしていた劇作家ジェームズ・バリは、散歩に向かった公園で若い未亡人のシルヴィアとその4人の息子たちと出会う。少年たちと凧揚げやインディアンごっこなどしてすぐに打ち解けていくが、中でもどこか冷めた表情の三男のピーターを気にかけるようになる。彼は父親の死にショックを受け、早く大人になろうとしているかのようだった。

ピーターに、次第に自分の少年時代を重ねて見るようになったバリは、その思いや親子との交流で得たものを新作劇に投影していく。そんなふうにしてバリとシルヴィア親子との交友が深まっていく一方、バリの妻メアリーとの仲は冷え切っていった。

シルヴィアは咳き込むことが多くなり、子どもたちも心配するが、彼女は「検査したところで無駄」と自分の死を覚悟し、バリに「いつかあなたのネヴァーランドについて教えて」と言う。シルヴィアのところに入り浸りで帰って来ない夫に絶望し、妻のメアリーはとうとう男をつくって家から出ていく。

新作の永遠の少年ピーター・パンの奇想天外な物語は、大人たちの忘れていた子ども心を呼び覚まし、大成功を収めた。モデルとなったピーターを「あなたがピーター・パンなのね」と誉めそやす大人たちに、ピーターは「ピーター・パンはこの人だよ」とバリを指さす。

病状が悪化し、ベッドから起き上がれないほどになったシルヴィアのために、ある日、バリは劇場のスタッフを連れてきて目の前で上演する。そして言う。「これがネヴァーランドだよ」


私が好きなシーンは、シルヴィアの体を心配する長男ジョージがバリと劇場で話すところ。既婚者であるバリが未亡人シルヴィアのもとに通うのをよく思わないシルヴィアの母親から出入り禁止を申し渡されたのを察して、ジョージが「おじさんは悪くない、お母さんが傷つくと思っているんだ」という顔を見て、バリが「すごいな、君はこの30秒の間に大人になった」と言うんですよね。
「少年」から「男」になる、大人の階段を上る、その瞬間がよく描かれているなと思いました。

バリがシルヴィアのところに通うのが社交界の噂になっていたのは予想つきますが、それに加えて少年たちに対して不適切な感情があるんじゃないか、という小児性愛疑惑が当時からあったというのがちょっと驚きました。

 

ますますミュージカルが楽しみになってきましたよ。

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映画『ミッドサマー』感想

 


 


家族を妹が起こした無理心中で亡くした女子大生ダニーは、スウェーデン出身のペレに誘われて、彼の故郷の”90年に一度の祝祭”を、大学で民俗学を研究する恋人クリスや友人と共に訪れる。


美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村「ホルガ」は一種のコミューンで、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始める。


9日間続くお祭りの二日目。会食のあと、二人の年老いた男女が輿に乗せられて断崖絶壁の崖の上に連れていかれる。二人は次々と身を投じるが、村人たちはそれを晴れやかな顔で見守っていた。驚く客人たちに族長らしき女性は、「これは昔から続く風習で、ホルガでの生命のサイクルを終えたので、老いて苦痛や恥辱の中で生きるより前に死ぬことは大いなる喜び」と説明する。
「ホルガ」が牧歌的な村と思いきや狂気のカルト集団だと知り愕然とするダニー達だったが、それは悪夢の始まりにすぎなかった・・・。


白地に色とりどりの刺繍が施された民族衣装、花冠、中世の宗教画のようなタッチで描かれた壁画・・・。メルヘンな世界で行われるトラウマ級の残酷な風習の数々。しかもそれ、実は壁画とかに描かれていて、「あ、これはこのことだったのか」と後から分かる仕掛けになっています。熊が縛られて焼かれる壁画があって、そのあとそのシーンが思わぬ形で再現されていて驚愕しましたね。


「90年に一度の祝祭」ってことでしたが、夏至祭自体は毎年やっていた様子。ポールの下で少女たちが躍る女王選びとか、歴代の女王の写真が飾られていたし。

ペレの両親も彼が12歳のときに焼死したとのことでしたが、それって儀式の一環で犠牲になったってことなんじゃないのかな。9人もの犠牲をささげるという大掛かりなことはやってなかったけれど、似たようなことはやっていたのでは。


ペレが友人たちを祭に誘ったのは、最初から生贄にするためだったんでしょうね。
ダニーのような天涯孤独の女性なんて、失踪しても誰も気にする人はいないし、小さな共同体での近親婚を避けるために、ときどきは外部の人間を招いて「性の儀式」をしていたようだし、クリスのような見目好い白人の男はうってつけだったでしょうね。
長老たちに「新たな血(クリス)と新たな女王(ダニー)を連れてきてくれた」と褒められた時の誇らしげな笑顔が、ほんとゾッとしました。

女王として、9人目の生贄にクリスを選んだダニー。自分を裏切って他の女と交わったから?ホルガの女王としてよそ者を始末しようと思ったから?
ダニーが清々しい笑みを浮かべるラストが衝撃的でした。



あとからネットで調べて驚いたのが、儀式の一環で崖から飛び降りる村の老人役として『ベニスに死す』で有名な美少年だった、ビョルン・アンドレセンが出ていたこと。
まだ役者として活動していたんだ・・・。



公式サイト:https://www.phantom-film.com/midsommar/

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アッシュ・メイフェア監督『第三夫人と髪飾り』感想

世界の50を超える国々で高い評価を受けるも、本国ベトナムでは公開4日後に上映中止となった衝撃作。

 

 

19世紀のベトナム。14歳のメイが大地主の第三夫人として嫁いできた大邸宅には、息子を出産した第一夫人、 3人の娘を持つ第二夫人が暮らしていた。まだ若くて無邪気なメイは、後継ぎとなる男児を産んでこそ奥様と認められることを知ったのち、妊娠する。出産を心待ちにする中、第一夫人も身ごもり、さらにメイは衝撃的な秘密を知る。


アッシュ・メイフェア監督が、自身の曾祖母の話から着想を得て自ら脚本を描いた作品。保守的なベトナムで上映中止になった理由は、「14歳の花嫁のラブシーン」なんて時代は違えど児童虐待もいいところだろ、ってことかと思っていたのですが、

 

普通なら寝所で男が来るのを待つ、ぐらいまでのところを、男が覆いかぶさって肌を合わせるところまで描いているんですから、こりゃあアウトだろうなと思いました。

さらに、妻同士のあけすけな性談義や、第二夫人と長男ソンとの密通など、かなりきわどいことも描いているし。

当局が中止を要請したというより、「こんな性的な映画に出演させるなんて、母親は金のために娘を売ったも同然」とネットで炎上して、主演女優とその母を守るために監督が中止を決めざるをえなかったそうな。


この映画は同時に、男尊女卑の時代を描いた物語でもあります。

男児を生まなかった第二夫人は「奥様」とは呼ばれず、長男ソンのところに嫁いできた少女は、ソンが手をつけなかったことで「役立たず」と父親から罵られ、追い詰められて自殺してしまう。

 

そうした女性差別は現代でも根強く残っていて、それが「女性が映画監督などけしからん」「女性が性を語るなどはしたない」という本音を隠して、「金のために娘を売った」などというとんちんかんなバッシングにつながったのでしょう。 

 

月満ちてメイが生んだのは女の子でした。亡くなった少女と、自分の娘の行く末を思い重ね、毒のある花をその口に入れようとするラストシーンが切なかったです。

 

 

 

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映画『ミッドナイトスワン』感想

 

 


 

 

身体は男で心は女のトランスジェンダーの凪沙(なぎさ)は
従妹の娘で、母親から育児放棄されていた一果(いちか)を養育費目当てで預かることに。
心を閉ざし、転校先の学校でも問題を起こす一果に手を焼く凪沙だったが、いつしか心を通わせるようになる。
彼女にバレエの才能があると知り、バレエを習う費用を工面するために、身体を売ろうとしたり、男の格好に戻って倉庫勤務の職を得たりもしたり、
ついには「母になりたい」とまで思いつめ・・・という話。

心と体の不一致がおきるということは、
「お前は男だから/女だから」と言われて、「自分が男/女だ」という性自認になるわけではなく、
最初から、「男の心」とか「女の心」というものがあるということなのか。
天使のいたずらで男の子の心と女の子の心を一つの体に宿した「リボンの騎士」のサファイヤみたいに。

そしてトランスジェンダーの厳しい現実、みたいな内容に考えさせられました。
スカートをはいてメイクした男性を受け入れてくれるのは、場末のゲイバーとか夜の商売くらいしかなくて、だから経済的余裕がない。
ホルモン注射とか、身体のメンテナンスにもお金がかかるし。

「なぜ自分たちばかりがこんな目に遭うの」って同僚たちと嘆いていたけど
普通の男だったら、普通に仕事もあって「オネエ」だの「オカマ」だのと馬鹿にされずに暮らせただろうに、
「自分らしく」どころか、普通に、つまり仕事もあって、健康で文化的な生活を送ることすら難しいってのは、本当に厳しいことだと思いましたね。


実の母親に連れ戻された一果を迎えに行きたいと思い、「女になれば母になれる」と、タイで性適合手術を受けるも、それはかなわなかった。

中学を卒業した一果が、バレエを続けついに海外留学の切符を手にしたことを報告しに、凪沙に会いに行く。しかし凪沙は、術後のケアをサボって手術した箇所が悪化し、血と糞尿にまみれたおむつ姿で横たわっていた。

「海に行きたい」という願いを聞いて、一果は凪沙を海に連れていく。そこで凪沙は、スクール水着を着た少女の幻を見る。
それは、スクール水着を着たいのに海パンを履かされた凪沙の本当の姿だった。


一果が踊る『白鳥の湖』のオデットは、朝日を浴びると白鳥に戻ってしまいます。

でも凪沙や一果は、白鳥になることで、人間関係とかいろんなしがらみから自由になり羽ばたけた、そういうことを言いたかったのではないか。

凪沙の想いを胸に世界のコンクールの舞台で踊るラストは圧巻でした。

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映画『ヒトラーVSピカソ 奪われた絵画の行方』感想

 


 

「1933年から45年にかけて、ナチス・ドイツがヨーロッパ各地で略奪した芸術品の総数は約60万点にのぼり、戦後70年以上経った今でも10万点が行方不明と言われる。なぜ、ナチス・ドイツは、いやヒトラーは、美術品略奪に執着したのか? 本作は欧米で活躍する歴史家、美術研究家を始め、略奪された美術品の相続人や奪還運動に携わる関係者の証言を元に、ヒトラーの思想の背景と略奪された美術品が辿った闇の美術史に迫る。ピカソ、ゴッホ、フェルメール、マティス、ムンク、モネ…今なお行方不明の名画たち。ナチスに弾圧され奪われた美術品と、それに関わる人々の運命に迫る名画ミステリー」

(ホームページより引用:https://klockworx.com/movie/m-407147/)

 

ローゼンベルクを中心にした、ERR--全国指導者ローゼンベルク特捜隊--ドイツ語で Einsatzstab Reichsleiter Rosenberg, ERR)という組織を作って、美術品を略奪したヒトラーとゲーリング。
戦後見つかって所有者のもとに帰ったのはほんの一握り。
2012年、略奪に加わった画商グルリットの息子が略奪美術品を隠匿していたことが発覚した。ドイツ政府はもちろん返還要求をしたが、息子は拒否。息子が亡くなったときも、所有者のもとには戻らず、なぜかスイスのベルン美術館に遺贈されることとなった。
所有者やその子孫は、中には金目当ての人もいるけれど、ほとんどが家族の思い出を取り戻したいと思って返還を要求している。


原題:HITLER VERSUS PICASSO AND THE OTHERS。題名はピカソのもとに親衛隊がやってきた時のエピソードに由来します。
ピカソの手元に「ゲルニカ」の絵葉書があった。親衛隊は聞いた「これはあなたの仕事(作品)ですか」
ピカソは答えていった「いいえ、あなた方の仕事(仕業)です。」

「芸術家は絵を描いたり音を聴いたりするだけじゃいけない。この世の悲劇や喜びに敏感な政治家であるべきだ。無関心は許されない。絵は、敵を攻撃し、防御するための手段なのだから。」

ヒトラーたちはこのことをわかっていたからこそ、ピカソ、ゴッホ、ゴーギャン、シャガール、クレーらの作品を退廃芸術の烙印を押して迫害したのでしょう。
前衛美術の芸術家たちにユダヤ人が多かったことも理由の一つだったのでしょうが。


それらの作家の作品を集めた『退廃芸術展』が、それと並行して行われた、ヒトラー好みの古典芸術を展示した『大ドイツ芸術展』よりも盛況だったことも、

芸術を迫害したことで多くの芸術家や作品がアメリカに流出し、それがもとでニューヨークで現代美術が盛んになった、現代芸術の発展に寄与したというは、ちょっとした皮肉だと思いました。

 

 

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韓国映画『レッドファミリー』感想

お隣に住む理想的なご家族が、実は北の工作員チームが家族を装って暮らしていた――。

北に残した実の家族を守るために日夜任務に励む彼らだが、喧嘩ばかりだけど仲のいい隣の家族が実はうらやましい。自分たちは、任務で一緒にいるだけのニセモノの家族だからだ。

夫役の工作員の妻が脱北を図って捕らえられたと聞き、妻役の女班長が大手柄を立てれば許されるのでは、と独断で反逆者と思われる人物の暗殺を行う。ところがその人物は寝返ったと見せかけて、北に機密を流していた重要人物だった。
女班長は「自分が責任を取るから他の工作員は助けて」と命乞いをするも、隣の韓国人家族を殺せば、北に残した家族だけは助けてやると言われ・・・。

と、話の内容も結末も読める話なんですが・・・。

家族として暮らしていくうちにお互い情が湧くが、甘えて失敗を許していたら命取りになる。距離を取らざるを得ない。いざ処刑されるとなったとき、みんなで隣の家族の喧嘩の場面を再現するのは、本当の家族のように本気でぶつかりあいたかった、という気持ちの現れなのでしょう。慟哭が胸を打ちます。


娘役の少女工作員が生き残っていた、というラストシーンは、これはファンタジーだなとは思いますが、希望を感じさせるラストでした。

公式ホームページ:http://redfamily.gaga.ne.jp/

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映画『独裁者と小さな孫』感想


 

 

独裁政権に支配される国。ある日、クーデターが起こるが、老いた独裁者は家族を海外に避難させるために空港へ向かう。
しかし幼い孫息子は、ガールフレンドと離れたくないとダダをこね祖父とともに残る。
しかしすでに指名手配され、腹心と思っていた元帥にも裏切られた独裁者は逃亡を余儀なくされる。

旅芸人に身をやつし、孫にも女の子の格好をさせて素性を隠しながら、独裁者と孫は海を目指す。

途中、警察の検問に遭遇するが、検問とは名ばかりで警官たちは難民たちに金品をたかっているばかりか、婚礼を挙げたばかりの花嫁にも暴行を加えていた。見殺しにされ絶望した花嫁は自らを銃で撃たせ命を絶つ。

独裁者は、若いころ懇ろだった娼婦のもとに向かい金を貸してもらう。

解放された政治犯の集団に紛れ込む。中には独裁者を殺すと息巻く者もいれば、「いや、負の連鎖を生むだけだ」と諭すものもいた。
そして独裁者の息子をテロで暗殺した犯人もいた。

政治犯の一人が住む村に着くが、あんなに再会を待ち焦がれた妻は
すでに別の男と所帯を持っていた。絶望した政治犯はその場で自殺する。

ようやく海にたどり着いた独裁者と孫だったが、民衆に見つかり取り囲まれる。
彼は、多くの罪なき国民を政権維持のために処刑してきた冷酷な男だった。
「絞首刑にしろ」「バラバラにして一人ずつ懸賞金をもらえばいい」
口々に叫ぶ民衆を前に独裁者は----


映画を見る前、題名だけ見て「独裁者」というからなんとなく南米の話かと思っていましたが、カーキ色の軍服に勲章ジャラジャラ、ロケ地はジョージアということで、旧ソ連の周辺諸国を思わせる架空の国が舞台の話でした。

監督は、ありそうな話、とフィクションでこの映画を構想したそうですが、この映画が発表されて2年後くらいに実際にウクライナでクーデターが起きたとき、「僕の映画の真似をしたんだ」と言ってたとか。


きらびやかな宮殿に住み、街中の電気を自分の言うままにつけたり消したりしてこの世の栄華を誇っていたのに、
一転追われる身となり、貧困に苦しむ国民や腐敗した公権力(軍や警察)を目の当たりにする。

実際は目を覆いたくなるような場面の連続ですが、
どこか現実離れして、「おそろしいメルヘン」といった印象。
孫息子の視点で見ているからでしょうか。

芸人のふりをできるほどのギターの腕前を持ち、30歳にして14歳の娼婦と恋をした男。
どうやって大統領まで成り上がったんだろう。
彼の半生が気になります。

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映画『グリーンブック』感想

ヴィゴ・モーテンセンさんが好きなので、ずっと気になっていたのですが、Amazonprimeで100円セールだったので見てみました。

 


 

1962年、ニューヨークの一流ナイトクラブ、コパカバーナで用心棒を務めるトニーは、客を殴ってクビになる。

ある日、トニーはなじみの客の紹介で、黒人ピアニストの運転手の職にありつく。彼の名前はドクター・ドン・シャーリー。カーネギーホールの上階で王様のように暮らし、ホワイトハウスでも演奏したほどの天才は、なぜか差別の色濃い南部での演奏ツアーを目論んでいた。クリスマスには戻る予定で、二人は〈黒人用旅行ガイド=グリーンブック〉を頼りに、出発するのだが─。

案の定、あちこちでドンは差別を受けます。博士号をもつようなインテリで、コンサートでは熱狂的に迎えられ賞賛されるドンですが、掃きだめみたいな黒人専用ホテルにしか泊まれなかったり、バーに行けば白人に絡まれて袋叩きにされたり、会場内のトイレを使わせてもらえず、屋外にある汚いトイレを使うよう言われたり、次の街を目指して夜車で走っていたら、「黒人は夜間外出は禁止」と言われブタ箱に放り込まれたり・・・・。
家に来た黒人の修理工が口をつけたコップを捨てたようなトニーでさえも、このあからさまな差別にショックを受けます。

トニーはニューヨークに置いてきた妻子に向けて手紙を書くのですが、「今日は何をした、何を食べた」というつまらないことばかり。見かねたドンは、ロマンチックな文章を考えてやります。そんな交流をとおして二人はお互いを理解していきます。

ツアーの最後の目的地、アラバマ州のバーミンガム。会場に用意された楽屋は物置部屋で、レストランでの食事も拒否されてしまう。あまりの仕打ちにドンはコンサートを蹴って会場を後にする。

トニーはドンをこの町の黒人専用のバーに食事に連れていく。白人とタキシードの黒人の組み合わせに店中から奇異の目で見られるが、トニーがピアニストだと紹介し、お店のピアノでまず手始めにショパン、そして店のバンドと即興で弾き始めると客も大盛り上がり。

それから大急ぎでニューヨークを目指したが、吹雪に阻まれてしまう。猛烈な眠気に襲われたトニーに代わってドンが運転し、ギリギリでクリスマスのディナーに間に合うようにトニーの家に到着。二人はそこで別れたがーー。


黒人ながらピアノの才能のために優遇されているドン。ゲイでもある彼は「黒人でも白人でも男でもない」と自分のアイデンティティに悩んでいます。南部への旅は、そんな自分を変える勇気を得るための旅だったようです。
粗野で喧嘩っ早いけれど、情に厚く道理がわかっているトニーは、そんな彼を見て黒人に対する偏見を改めます。


最後、ひとり家に戻ったドンが、トニーの家を訪れるシーン。
トニーが家族にドンを紹介すると、一瞬動きが止まりますが、次の瞬間、「彼のために場所を空けろ」と歓迎する様子を見てホッとしたし、トニーの妻ドロレスが、ドンが手紙を書かせたのだと見抜いていたのがよかったです。素敵なラストシーンでした。


最近またBlack Lives Matter などと言って、黒人差別反対運動が活発化してます。この問題は根が深くて、解決は難しいと思いますが、少しでも相手に寄り添える人が増えればいいと思いました。


公式ホームページ:https://gaga.ne.jp/greenbook/

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映画『華氏119』感想

アメリカは今大統領選の真っただ中ですね。日本でも新しい自民党総裁、つまり総理大臣が決まったばかりですが・・・。

 


 

 

 

あんな男が大統領になるわけなんかない。誰もがそう思っていた。

だが2016年11月9日、当選者として発表されたのは、ヒラリー・クリントンではなく、「あり得ない」はずのドナルド・トランプだった。


あれから4年、アメリカは彼の支持層である富裕層に有利な政策を推し進め、弱者は切り捨てた。アメリカの原点であったはずの民主主義は、いまや風前の灯火だった。

その一つの例として、ムーアの故郷ミシガンの水道利権問題を取り上げる。

トランプの古くからの友人であるスナイダーという大富豪が、2010年、ミシガン州の知事に就任した。知事は、緊急事態を宣言して市政府から権限を奪い、さらに金儲けのために、黒人が多く住むフリントという街に民営の水道を開設する。しかしこの水に鉛が混じっており、人々は鉛中毒に苦しむ。知事は頑として問題を隠蔽し続けた。

映画は、支持率が低いはずのトランプがなぜ当選したか、労働者や若者から票を集めたバーニー・サンダースではなくてヒラリーを民主党の候補者に据えたからくりを紐解いていく。そこには複雑な選挙制度が絡んでいた。

とはいえ、腐敗した権力と闘うために、立ち上がった人たちもいる。
フリントの汚染水問題に抗議する地域住民、ウエストバージニア州で教師の低賃金に抗議するために決行されたスト、フロリダ州パークランドの高校銃乱射事件で生き残った高校生エマ・ゴンザレスの銃規制への訴え──。

最後にムーアは、今のアメリカが戦前のドイツに似ていることを指摘し、ヒトラーの映像とトランプの演説をオーバーラップさせる。

トランプは今、再選を目指して突っ走っている。民主主義を、生きる権利を守るため、未来のため、しなければいけないことは──


単にトランプ政権のヤバさを暴く映画と思いきや、アメリカの民主主義そのものが崖っぷちに立っていると訴えかける映画でした。

ヒトラーとトランプのオーバーラップは、手法として陳腐かもしれないけれど、おそろしいほど違和感がなかったですね。

映画としては、いろんなエピソードを盛り込んだため、散漫な、というか、切れ味が悪い印象を受けました。

 

 

 

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